モンテッソーリ教育では
コドモを観察すること
が大切だといわれます
「観察する」
ってできてそうで
できてないです
ワタシも保育士をしているとき
コドモを見ていました
でもそれは
「観察」
ではなく
「監視」
だったのではないか
「観察」とは
先入観なく
ありのままのコドモの姿を
見ること
「監視」とは
理想のコドモの姿があって
そこから外れたコドモがいないか
見張っていること
部屋のなかを走っている子がいないか
友達とトラブルになっている子はいないか
「監視」していたのです
家庭でも
コドモを「監視」していることが
ありませんか?
"コドモはゲームばかりしてないで
宿題をさっさと終わらせるべき"
という理想の姿があって
そこから外れると
「ゲームばかりしてちゃダメ!」
「早く宿題しなさい!」
とガミガミ言ってしまう
結局
理想ののコドモの方に
目がいっていて
実際のコドモのことは
ちゃんと見てないんですよね
「監視」していると
○か×かでコドモを見てしまい
コドモが何を考えているか
どうしてそんな行動をするか
見えなくなってしまいます
本当は
もうすぐ宿題をしようと思っていた
あと○分でゲームを終わろうと思っていた
のかも知れません
コドモを見る
その目は
コドモが悪いことをしないか
「監視」するのではなく
ありのままの姿を
「観察」する
目でありたいと
思います
コドモノミカタワタシノミカタ
子育てをがんばるアナタノミカタ
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